1 大正・昭和(戦前)(1926~1945)
井上育英会は、井上侯爵家の寄付、井上馨侯の養嗣子井上勝之助氏より馨候の書画等の売却収益の半分(100万円)が寄付されたことにより創設された。ちなみに、当時の100万円は、国民所得をベースに現在の金額に換算すると300億円を超える額となる。
1926年2月5日に設立の許可通知がなされ、文部省管轄の財団法人井上育英会として発足した。同年5月6日に貸費生推薦依頼状を発送し、28名を選抜した。対象は全国30の旧制高等学校より各1名である。
奨学生には、大学3年間月50円貸与した。当時の帝大卒の初任給が60円から70円あることから推計すると、現在の価値で20万円近い額になる。受けた恩恵は必ず後輩のために返す「報恩感謝」とお互い扶け合ってゆくという「相互扶助」の2つを柱に、給費制でなく、敢えて貸費制を採用したとのことである。
1926年10月に、親睦機関として桜菱会(おうりょうかい)がスタートする。「桜菱会」は、井上家の家紋桜菱(さくらひし)にちなんで命名された。1939年7月には、鮎川義介氏の寄付35万円を基金に法人化、厚生省主管の財団法人桜菱会が認可された。
東京の巣鴨に2棟の学生寮が用意され、役員と学生の懇談会、ピクニック旅行、卒業祝賀会が開催され、機関誌なども発行された。
なお、元顧問の中村隆二氏によると、鮎川氏は、東大卒業後、芝浦製作所の一職工として2年の修行後、渡米先の鋳物工場で職工として現場作業に従事したとのことである。
また、育英会設立時の役員には、初代理事長の山県伊三郎氏(山県有朋の嗣子)、理事兼評議員の鮎川義介氏のほか、評議員の伊藤博邦氏(伊藤博文の嗣子)、木村久寿彌太氏(三菱合資の総理事)、高橋是清氏(総理大臣)など、多くの有力者が名を連ねていたとのことである。
2 昭和(戦後)(1946~1988)
敗戦で状況が一変し、育英会に大きな危機が訪れた。学生寮、事務所が戦災で焼失し、インフレにより貨幣価値は100分の1以下に下落した。
1948年夏の評議員会では、育英会の他の公益事業への転向や育英会の解散などが話し合われた。しかし、小川信雄氏が育英事業の存続を主張し、鮎川義介氏も協力を約束する中で、育英会出身者の応分の拠出により事業を続けることとなった。
1949年4月には、桜菱会の全国大会が開催され、小川信雄氏が理事長に選出された。
しかし、育英会の厳しい財政状況は続く。こうした中で、鮎川氏の援助は非常に貴重であった。
鮎川氏により吉祥寺の3000坪の邸宅が寄付され、邸宅から上がる家賃は育英会の大切な財源となった。また、1950年には使用人住宅を改造して学生寮(霞芳(かほう)寮)を復活することができた。
さらに、1952年には、吉祥寺の資産を処分して、新宿牛込納戸町(なんどまち)に敷地240坪の家屋を購入、1954年5月に霞芳寮と事務所、集会宿泊施設が一体化した桜菱会館を建設することができた。
こうした中で、1955年に創立30周年を記念して育英事業基金を募集し、目標1000万円に対し1200万円の応募があった。
また、1974年12月には、高度成長に伴う物価の上昇に対応するため新しい永続的な募金活動をスタートした。2025年までの約50年間の累計は、延べ12,500人、総額2億円を超えている。(最近の醵金の状況(「財務の状況」)
さらに、鮎川氏からは、1956年に伊豆大島の土地12万坪の土地の寄付の申し出があった。最終的には、日産興産に2,500万円で買い取ってもらい、年8%、200万円の支払いを毎年受けることとなった。
1964年には、牛込納戸町の家屋が老朽化したため売却して、事務所は近くのマンションに、学生寮は1965年に世田谷区上馬に完成した新しい寮に移る。その後、事務所は、1968年に千代田区平河町に移転した。 また、霞芳寮は、1970年に利用する学生が漸減したため廃止された。
3 平成以降(1989~2025)
法人制度改革のための関連3法が2006年6月に成立したことを受けて、2007年7月に「公益法人制度改革検討委員会」を設置して対応策を検討した。
同委員会の答申を受け、2008年6月、
①まず井上育英会が桜菱会を吸収合併する、
②その後に公益法人の認定を取得する、との2段階方式の方針を決定した。
2010年4月に文科省より合併認可の通知を受け、7月に井上育英会と桜菱会が合併した。
公益認定取得については、2011年10月に「公益認定推進委員会」を設け、認定申請の手続きを進めた。2011年11月に内閣府の公益認定等委員会にて認定適合との答申が出て、2012年4月、公益財団法人井上育英会としてスタートすることができた。
低金利時代の到来により利金収入が減少し、2001年度から事業継続のために資金取崩しを余儀なくされた。取崩しは2011年度まで続き、累計で約1億4千万円にも達した。こうした中で、2010年9月に「基金拡大委員会」を設置した。同委員会の答申を受け、2011年10月頃から一部資産について、株式、REIT等にて運用を開始し、財務状況の大幅な改善を図ることができた。
これにより事業の拡充が可能となり、例えば、奨学生採用人数を、従来の15名前後から、2014年度20名、2015年度22名に増員することができた。
2017年11月には、約50年にわたって千代田区平河町にあった事務所を新宿区市谷田町に移した。
また2022年11月には、支部と協力して全国学生交流会を地方(仙台)で開催することし、その後も、京都(2023年)、阿蘇(2024年)において全国学生交流会を開催した。 なお、育英会の創立を祝う行事は、1935年の創立10周年の記念式典をはじめとして、100年の歴史の中で10回近く行われてきた。
こうした中、2025年11月には本部(東京)において育英会創立100周年の記念行事が実施され、また、各支部においても同年の秋から26年春にかけて創立100周年を祝う行事が多くの関係者の協力の下で行われた。

井上 馨
いのうえ かおる
1835年長州藩士の家に生まれる。
通称は聞多。若くして高杉晋作らとともに尊王攘夷運動に参加するが、伊藤俊輔(博文)らと英国に留学して世界の現状に開眼、帰国して倒幕に活躍し明治政府で要職を占めた。
我が国最初の内閣である第一次伊藤内閣の外相として、条約改正に取り組んだ。
のち農相・内相・蔵相なども歴任。実業界の発展にも力を尽くし、元老として政財界に睨みを利かせた。
1915年没。

鮎川 義介
あいかわ よしすけ
1880年山口県に生まれる。
東大工学部を卒業後、一職工として国内や米国の工場で現場の勉強を重ね、戸畑鋳物を創業。
のち義弟久原房之助(久原鉱業、日立製作所の創業者)の頼みで事業を引き受け、日本産業を中核に日産自動車などを傘下に入れた日産コンツェルンを樹立した。
その後日本産業(略称日産)を国策会社、満州重工業に改組して総裁に就任。
戦後は中小企業の育成に力を注ぎ、中小企業助成会、日本中小企業政治連盟などを設立、参議院議員なども務めた。
1967年没。
井上育英会100年のあゆみ | |
1926年2月5日 | 設立 (大正15年) |
1928年3月28日 | 第1回生5名卒業 (昭和3年) |
1935年10月25日 | 創立10周年記念式典 |
1939年7月18日 | 財団法人桜菱会の発足 |
1949年4月29日 | 桜菱会全国大会 (昭和24年) 井上育英会、桜菱会 理事長 小川信雄氏 |
1950年 | 学生寮の復活―霞芳寮(かほうりょう)と名付ける |
1950年10月1日 | 創立25周年記念式典 |
1954年5月17日 | 新宿区納戸町に桜菱会館を建設 |
1955年5月15日 | 創立30周年記念式典 |
1960年5月22日 | 創立35周年記念式典 |
1965年7月1日 | 事務所 を新宿区薬王寺町に移す |
1965年7月20日 | 世田谷に霞芳寮建設 |
1968年9月28日 | 事務所を千代田区平河町に移す |
1974年度より | 育英資金募集開始(現在に至る) |
1980年11月8日 | 創立55周年記念式典 |
1985年11月6日 | 創立60周年記念式典 |
1995年11月6日 | 創立70周年記念式典 (平成7年) |
2005年11月11日 | 創立80周年記念式典 |
2010年7月1日 | 井上育英会と桜菱会が合併 |
2012年4月1日 | 「公益財団法人 井上育英会」スタート |
2015年11月13日 | 創立90周年記念式典 |
2017年11月23日 | 事務所を新宿区市谷田町に移す |
2022年11月 | 全国奨学生交流会を仙台にて開催(令和4年) |
2025年11月15日 | 創立100周年記念式典 |
